自然とともに、すくすく。のびのび。
三重県四日市市の
小川の流れる幼稚園です。

1月の聖句

今月の聖句

「わたくしを強めて下さる方のお陰でわたくしはすべてが可能です」

フィリピの信徒への手紙4章13節

 

1月の聖句

 新年あけましておめでとうございます。本年も皆さまの御家庭の平安をお祈り申し上げますと共に、よろしくお願い致します。

さて、このフィリピの手紙の送り主パウロは、キリストの伝道者の故に迫害され、当時、牢獄に囚われの身でした。この書「獄中(ごくちゅう)書簡(しょかん)」と言われていますが、わずか4章から成る短い手紙の中で「喜び」「喜ぶ」とのことばが16回も使われています。別名「喜びの書簡」と言われる所以(ゆえん)です。最近、心理学でも解かってきたことですが、日常生活の中で「喜ぶ」、また人と共に喜ぶ状況を創ることが創造性を生み、健康状態を保つためにも、病気の回復のためにも良薬だそうです。「喜び」は日常生活を大きく転換させ、すべてを+(プラス)の方に向け、いろいろなことを可能にするのです。パウロは、今月の聖句の前の11~12節で「私は自分の置かれた境遇に満足することを学びました。貧しく暮らす術(すべ)も、豊かに暮らす術も知っています。満腹することも、飢えることにも、有り余ることにも、乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得(こころえ)ています。」と書いて…、だから「私にはすべてが可能です」と言い切りました。

 このことは、生きることを学んだ達人です。生活の達人です。パウロは「過去」とも訣別(けつべつ)します。この世で頼みとなるもの、足掛りとするもの、即ち、家柄や血筋、経歴、財産などです。パウロ自身「自分はイスラエル民族の中でも超一流の血筋、ローマの市民権を持つ者、若くして一流の律法学者、期待されるリーダーとして非の打ちどころのないもの、皮肉的だけれど、イエスに対してその信ずる者を捕らえて殺すことすらためらわなかった迫害者。これらは、この世の生き方では、益であった(フィリピ3:1-7)。」「しかし、私にとって利益であったこれらのことをキリストの故に損失と見なすようになったのです(3:7)。 … キリストの故に私はすべてを失いましたが、それらを今は塵芥(ちりあくた)(屑(くず))と考えています(3:8)。」 ―ある日、パウロの家にごみ収集車が行くと、家系図や賞状や勲章やバッジが、山のように捨てられていましたとさ。― さて、パウロの言う「私は、自分の置かれた境遇に満足することを学びました」とか、「吾、足ることを知る」の境地は、どこから来るのでしょう。

 それは、一日、また一日と同じように思えることが繰り返される日常生活に「日々、勝利する」ことからです。セルフ・マネージメント(日々の自己管理、健康状態、人間関係、能力、精神生活やライフプランなど)する前提条件として「自分はどこから来て、いまどこに居るか、これからどこに行くか。」この問いを自分にしてみましょう。「神様はわたくしを愛して下さり、お母さんのおなかの中でわたくしのからだをつくり、死ぬことのない霊魂(たましい)をくださったからです。(まきばのおしえ問8)」「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき…死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるか。わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう。(コリントⅠ 15:54-57)。」

 今の生活の中で「感謝すること」と「いま・ここに生きる」ことを「よろこぶ」ことです。試みに、自分の名前を声に出して呼んでみてください。聖書には、神さまがその人の名を呼んで、「いま、どこにいるか?」と問われる場面がいくつか出てきます。その時「Here I am ! 私はいま・ここにいます」と答え、神さまはその人に「使命」を与えました。生きていることの意味と、よろこびです。人生は死をもって「THE END(幕)」ではありません。永遠に生きるのです。

 今年も、日に日に、よろこび(+)を積む日でありますように!!

 

 

園長 山田 昭和