自然とともに、すくすく。のびのび。
三重県四日市市の
小川の流れる幼稚園です。

1月の聖句

今月の聖句

「神は愛です」

ヨハネの手紙Ⅰ4章16節

 

1月の聖句

 2021年。 明けましておめでとうございます。昨年はコロナ、コロナで明け暮れ、世界的な大きな試練の年でしたが、歴史の教訓では、人類の叡智(えいち)は生き方や生活のスタイルを大きく変換させて精神史の節目にして来ました。私たちも個人として自己と向き合い、この大きなうねりの中で、自分の心といのちをどのような見える形で表現していくのでしょうか。

 「神は愛です」この文言を活字として目で見、また園児が唱和する言詞を耳で聞くと、どのような印象でしょうか。 「神」も「愛」も抽象的な言語です。日頃の生活の中の身近な言動に関わってくる言(ことば)でしょうか。このヨハネの手紙の著者は、イエスさまが公に伝道活動を開始したときの最初からの弟子であり、イエスの活動の全部(すべて)、最後の十字架の死と復活、昇天までを共にし、更に初代教会を形成した使徒(しと)でした。書き出しの一章で、「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手で触ったもの、すなわち命の言(ことば)についてーこの命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を私たちは見て、あなたがたに証(あかし)し、告げ知らせるのですー「わたくし」という一個人の存在と、その一生は、旧約聖書の詩人の表現によれば、“朝が来れば花を咲かせ、夕べにはしおれて枯れる”草のような存在であり”人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません(詩篇90)。」とあります。“人生の終わりは眠りの中を漂い夢のまた夢”です。しかしながら、五感で確認しながら生身で生きる喜・怒・哀・楽や四苦八苦は、それなりに長く感ずる「労苦と災い」の時間の連続です。「初めからあった“命の言”」は、大きく表現すれば宇宙の果て、身近に捉えれば足の裏に感ずる大地、即ち地球が造られたそれ以前から存在していた。そして「この世」という拡がりと時間の中に「肉」となって私たちの間に宿られた。-それは父(神)の独り子としての栄光であって恵みと真理(まこと)とに満ちていた(ヨハネ1:14)。」 ―私たちが目で見、彼が語った言(ことば)を耳で聞き、手で触れることの出来るものとしての肉(人間)として、ローマ政帝の支配したヘロデ王の時代という歴史の中に生きたのです。そのお方に「わたくしの一生と永遠のいのち」が托されている。この証言を自分の日常生活の基(もと)として受け入れることができるでしょうか。今日ほど「本物でないもの」が溢れている時代はありません。「道」も「真理(まこと)」も「命」も見失われて、明日への光が見えないのです。

 1990年代に始まった情報革命は虚実(きょじつ)の区別を曖昧(あいまい)にしてしまいました。架空のものがあたかも現実に存在するかのように描く技術革命(コンピューターグラフィック)や、デジタル合成技術は擬似(ぎじ)ドキュメント映像やリアリティ番組を生み出し、今世紀に入ってSNSが普及して「事実」や「本物」が何であるかも明確でなくなり、誤情報や偽情報が氾濫しています。目に見えるものも、耳に聞こえてくるものも本物ではなく、手で触れることもできません。政治家や権力者も情報詐術(さじゅつ)を使い、社会を混乱させています。嘘やデマがまことしやかに拡がる社会です。知性や感性がやせ細り、生身の温もりが隔(へだ)たる時代です。“イエスは言われた「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ福14:6)。」

 また、イエスの弟子トマスが、復活されたイエスを信じることが出来ないと言ったとき、「あなたの指をここに当てて私の手を見なさい。あなたの手を伸ばして私の脇腹に入れなさい(ヨハネ20:27)」と言われ、手で触れさせ事実を確認させました。「神は愛です」神がまず私たちを愛して下さっていつも共にいて下さいます。私たちも「いま」日常生活の中で愛を「かたち」にしなければなりません。目で見える、耳で聞こえる、いのちの温もりを伝えるという、言動で相手が愛を受け取れるよう実行する。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちの内にとどまり神の愛が私たちの内に完(まっと)うされるのです(ヨハネⅠ4:12)。」互いに愛を「かたち」にする一年といたしましょう。

 

 

園長 山田 昭和