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三重県四日市市の
小川の流れる幼稚園です。

6月の聖句

今月の聖句

野原の花がどのように育つか考えてみなさい

ルカによる福音書12章27節

 

6月の聖句

 日本で6月の代表の花といえば朝露に輝く、あるいは小雨に濡れる「紫陽花(あじさい)」でしょうか。花は世界中、至るところにも咲いています。小川に、海に、高い山の頂にも、谷間にも、灼熱の砂漠にも、一冊のアルバムに納まり切れない多様な花があります。猛獣さえ寄せつけないトゲをもつ花から、月影に消えるけなげな花まで。また、その国、その地方を代表する、その季節を代表する花、特定の、そこにしか咲かない花もあります。街路に、公園に。そして各家庭のベランダを色どり、多くの人々の心を豊かにし、創造主を賛美しています。花は、人生の始まりから終りまで、折々に贈り、贈られ、みんなの心に咲いています。

 さて、今日の聖書の言は、イエスさまが、「野原の花」に注目され、「どのように育つか考えてみなさい」と言われました。多忙な日常生活で、野原の花を想い出すことは余りないかも知れませんが、指摘されて、改めて目を向けますと、道ばた、駐車場、アスファルトのすきまから、目に入ってきます。今日のイエスさまのお話の流れからすると、「神と富」という二つの主人という枠組の中で語られています。
 「霊や魂やいのち」と言う、神さまの司る、支配される領域と、方(かた)や地上のこと、それは「富」と言われ、私たちの欲望の支配す領域です。「命のことで何を食べようか。体のことで、何を着ようかと思い煩(わずら)うな。命は食べものより大切であり、体は衣服より大切である(ルカ12:22-23)。」2つを比べてみればどちらが大切か、本命かわかります。ところが日常生活では大切でないことの方に心を砕き、思い煩うことが多いのです。しかし、一担、体の健康を損ね、病の床に就いて食べる物も食せず、飲むべきものも飲めず、の状態になって、始めて、裸の自分を思い知らされ、「命」が晒(さらさ)れます。改めて、「自分の存在」を思うのです。「あなたがたのうち、誰が思い煩ったからといって寿命を僅かでも延ばすことができようか。こんな小さなことさえできないのに、なぜほかのことで思い煩うのか。”野原の花がどのように育つのかを考えてみなさい(27)。”働きもせず紡(つむ)ぎもしない。しかし言っておく。
 栄華(えいが)を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装(よそお)ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか。何を飲もうかとあくせくするな。また、思い煩むな(ルカ12:26-29)。」

 日頃の余りにも小さなことに、くよくよする私たちに”あなたの神に対する信仰はそんなに小さい…の?そして、その心を「野原の花」に向けなさいと言われるイエスさまのやさしさと、そのまなざしを深く感じます。イエスさまが公けの宣教活動を始められる前に、悪魔(あくま)(サタン)から試みを受けるため四十日四十夜、荒れ野(砂漠)で断食生活をなさいました(マタイ4:1-2)。裸と命を晒(さら)され、十字架上の死の前味を経験されました。空腹を覚えられた時、神の子なら、石をパンになるように命じよ、また、サタンは「世のすべての国々とその栄華を見せて(マタイ4:9)」…ひれ伏して、自分を拝むなら…とも試みました。何を食べようか、この世の富、栄華とは何か。その折、イエスさまは野原の花の美しさや、やさしさ、神の国の力を感じられたと思います。
 謂ゆる「山上の説教(マタイ5:1-)。」の山(野原)も、筆者が訪問したとき、野の花が咲いていました。イエスさまの生活の場、-教えや祈り-には、野の花が近くに在りました。日常生活の中で「野原の花がどのように育つか考えてみる」ゆとりと共に「野に咲く花のように」生きる日々でありたいと思います。

 今日も神さまのお守りを頂き乍ら、園児と共に野の花の生活をしましょう。

 

2021年6月 園長 山田 昭和