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三重県四日市市の
小川の流れる幼稚園です。

7月の聖句

今月の聖句

「勇気を出しなさい」

ヨハネによる福音書16章33節

 

7月の聖句

 早や今年も半分の時を経て、夏休みに入ります。子供たちも、それなりに自分の居場所を見つけています。夏休みは心を整理して一段と落ち着くことでしょう。
さて「勇気を出しなさい」と、唐突に一言、言われますと、どのように理解し、受け止めれば落ち着くことが出来るのかと戸惑います。

 今日の聖句の箇所は、聖書(キリスト教)の教えを理解する上で大切な文脈のところです。16章33節の全文は「これらのことを話したのは、あなたがたが私(イエス)によって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし“勇気を出しなさい”私(イエス)はすでに世に勝っている(16:33)。」です。今、この聖句が語られている場面は、「最後の晩餐(ばんさん)」として知られている席であって、すでにイスカリオテのユダはイエスさまを裏切り敵に渡すために食事の卓を去り、残された者との小さな団欒(だんらん)と言えるのか、愛する弟子たちへの告別の時なのです。イエスと弟子たち一行が、エルサレムに上って来て以来数日、イエスさまが話されたこと、行われたことの全てを弟子たちは共に理解して来ました。病気で死んで墓に四日間も埋葬(まいそう)されていたラザロがイエスによって生き返らされた出来ごとをきっかけとして、最高法院(宗教界)はイエスを殺す計略を始めました(ヨハネ11章)。また、13章2節「夕食の時であった。すでに悪魔は、シモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていた。イエスは、父がすべてをご自分の手に委ねられたこと、また、ご自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」とあります。イエスさまの内にもそしてその周辺にも急激に「十字架の死」が浮彫にされ、そして、そのときが来ました。今に生きる私たちも、当時のイエスの直弟子たちと同じでしょうが、「キリスト教の奥義(おくぎ)(宗教の本質)」が、解らないと常識的な論理で考えても、ストンとは分からないですね。最後は「信仰の論理」です。自分とその人生を、どのように捉えるか・・。「人生の目的は生きて最後は死で終るのか、生きて勝利し、永遠のいのちを得るのか」です。神と和解する日々を重ねて平和を得るのか。「罪の支払う報酬は死です(ローマの信徒への手紙6:23)。」と書かれている「負の人生」のままを生きるのか。キリスト教の福音は「神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛された。御子イエスを信じる者が一人も滅(ほろ)びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである(ヨハネ3:16~17)。」と、あるように、父なる神は「世」を愛され、独り子・御子イエスを信じる者がすべて“永遠の命”を得、世が救われるため、独り子を世に与えた。イエスさまご自身も、その誕生の時より、成長と共にその立場(神の子であり、神との平和を創る仲保者)を理解し、受け入れて来られました。そして、公けに宣教活動を始められて、神の子としての力ある業をされ、神の子としての栄光も顕(あら)わされました。一方、父なる神さまは罪を贖(あがな)い、世を救うため独り子を世に与え、旧約の律法に定めた犠牲の子羊として、十字架上でイエスの血を死をお受けになります。救いの計画の業の完成のため独り子をお見捨てになりました、また、イエスさまは、その愛した弟子たちも含めて人々から見捨てられました。その苦悩と葛藤の中から、明日の十字架の死を、現実として全て受け入れられたのです。イエスさまは十字架上で「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか(マタイ27:46)。」と、最後のさけびをなさいました。「キリストは神の形でありながら・・・・人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで従順でいた(フィリピへの手紙2:6~8)。」その生涯を十字架の道として歩まれたイエスさまは「なぜ私をお見すてになるのですか?」との問と共に歩まれました。最後の夜が更けて行く中で、イエスは「見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい私を独りにする時が来る。いや、すでに来ている。しかし、私は独りではない。父が共にいて下さるからだ(ヨハネ16:32)。」“勇気を出しなさい”私はすでに世に勝っている(33)。」

 

 

園長 山田 昭和