自然とともに、すくすく。のびのび。
三重県四日市市の
小川の流れる幼稚園です。

9月の聖句

今月の聖句

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

ヨハネによる福音書13章34節

 

9月の聖句

9月。二学期が始まります。いろいろとあったこの夏の祭りも行事も、真夏の夜の夢のように、セピアカラーの世界に去りました。二学期は園児の活発で前向きな姿の先に、季節は秋のカラーへと深まり、多くの自然の稔りと収穫をくださいます。感謝祭と共に「ありがとう」の心が育ち、プレイデーと共に身体の成長と力強さを示しながら、イエスさまのお誕生を待(ま)ち祝う頃には、霊的にも一段と成長します。二学期は「見えないものの世界」心の成長する季(とき)です。「愛すること」は心の成長の最も大きな証です。

今月の聖句34節の前には、「あなたがたに、新しい戒(いましめ)を与える(31節)」と書かれています。
私たちの人生、生き方に「新しい戒」としての「愛」。それは、今まで私たちにはなかったもの、なのでしょう。私たちが、今まで普通に行って来た愛は、親子、兄弟、夫婦、友情、師弟といった、人間関係の中にある深い特別な接し方です。好き、とか、好意の感情もあります。「私(イエス)が、あなたがたを愛したように」とは、イエスさまが、私たちと神さまの和解のために、御自身を「罪を贖(あがな)う犠牲」として、ささげて下さった、という「その愛」であった、人生を感謝して、「ありがとう」の思いをもって、互いに生きる生活です。イエスさまは、私たちが、互いに許し合い、仕え合う生活を求めておられます。

イエスさまの教えの中に、神さまが、すべての国民を御自分の前に集め「羊」と「山羊」を分けるように、右と左の群れに分け、羊の群を祝福し、山羊の群れは、永遠の火に投げ込まれる、というお話をされました。その理由と基準は、「あなたがたは、私が飢えていたときに食させ、喉(のど)が渇いていたときに飲ませ、よそ者であったときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに世話をし、牢にいたときに訪ねてくれたからだ(マタイによる福音書25:35~6)
羊の群れの者は言います。主(神)よ、私たちは、いつ、そのようなことを致しましたか?主はお答えになりました。「この最も小さい者の一人にしたのは、すなわち私にしたのだ(25:37~40)。」山羊の群れの者も言いました。「いつ、私たちはそれらのことをしませんでしたか。主は言われました、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしなかったのである(25:41~46)。」と。

今の時世、を生きるに当って、何が正しいことか、良いことかの解らない基準のない世界で、へたをすると、すぐ「~ハラ」と言われかねず、人間関係は「ディスタンス」をおくこと、小さな親切もしないと云う風潮です。イエスさまが、「私が愛したように」と言うことばを自己を犠牲にする愛と受け取ってしまうと、びびってしまいます。しかし、「私と言う小さい者が、その一生を神の前には罪を赦されて、生きる権利を、公平・平等に与えられた存在として、感謝の生活を送る。」その意味で愛し合うこと、仕え合うことは、イエスさまが求めておられることです。

最近、耳にし、目につくようになったSDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)は、国連で採択された2030年までに解決を目指す共通目標であり、「ポストコロナの道標」として言われるようになって来ている新しい掟です。17項目中の4番目の「質の高い教育をみんなに」に関して、「子供の教育を犠牲にして栽培されるコーヒーにNO!を」と言う運動を紹介している本があります。この運動は以前からあったそうですが、今、改めて注目され、取り上げられるようになったそうです。
コーヒー栽培適地は辺鄙(へんぴ)なところや山岳地が多く、短期集中作業のため子供づれの季節労働者が多く、その子供たちのために家庭教師をつけ、短期特殊教育が行われています。
一杯のコーヒーを頂き乍ら、小さな者への小さな愛の関りを想うことも、自分は羊・山羊のどちらの群れにいるのか気づきの始まりです。

園長 山田 昭和