自然とともに、すくすく。のびのび。
三重県四日市市の
小川の流れる幼稚園です。

3月の聖句

今月の聖句

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。

マタイによる福音書28章20節

 

3月の聖句

 3月は卒園式と進学、おめでとうございます。年少・年中組も進級です。礼拝の時に、園児のひとりひとりの顔を見ながら、子供たちの素直な、真すぐな目を見て、イエスさまはいつもこの子たちと共に居て下さることを実感します。感謝の一年でした。
この子たちが、これからどこに行っても、その生涯で出合う人たちに、シャローム(平和があるように)のあいさつをもって、平和を創り出す人となり、よい友だちとなって、その生涯が祝福されるように祈ります。自分の一生と言えども、いつも自分の欲しいものが得られる訳でもなく、思い通りにもなりません。これからの時代は人間関係においても益々、混沌として、何を信じ誰を信じて生きてよいのか分からなく、不安の中で孤立する、孤独な生活者になる孤立社会がやって来る。
それは一種の病気として、死を招く、そういう時代が来ると言われています。そのような社会で、共に生き共に居ることが出来る人が平和を造る人になります。

 今日の聖句は「わたしは世の終わりまで、いつも共にいる」です。イエスさまの御生涯は、神の子として輝しいものであり、沢山の弟子も従いました。しかし、イエスさまが十字架に掛けられる前のローマ兵のイエスさまへの関わり方、「それから総督(そうとく)の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。そして、イエスの着ているものをはぎ取り、赤い外套(がいとう)を着せ、茨(いばら)で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦(あし)の棒を持たせて、その前にひざまずき「ユダヤ人の王、万歳(ばんざい)」と言って侮辱(ぶじょく)した。また唾(つば)を吐きかけ葦の棒を取り上げて、頭を叩き続けた。このようにイエスを侮辱したあげく外套を脱せて、元の服を着せ十字架につけるために引いていった(マタイ27:27-31)。」
イエスさまは、この世の人からこのように侮辱され弄(もてあそ)ばれました。自分の仕事も、立場も、道具の一切も捨てて、イエスに従って来た弟子たちも、道を見失い、すがるものを失って、イエスから離れて行きました。自分はイエスに従って人生を生きて来た。これから、自分を何に委ねて生きるのか。
最初からイエスの中心的な弟子、いつも筆頭であったペテロでさえ、周囲から、「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」と言われると、ペテロは呪いの言葉さえ口にしながら「そんな人は知らない」と誓いました。この世でイエスさまほど、孤立、孤独を味わった人はおられません。十字架上での最後のことばも「わが神(エリ)、わが神(エリ)、なぜわた(レマ)をお見捨に(サバクタニ)なったのですか」でした。神からも人からも見捨てられました。「キリストは神の身分でありながら、神に等しい者であることを固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分となり人間と同じ者となられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。そのため、神はキリストを高く上げあらゆる名にまさる名をお与えになりました(プィリピの使徒2:6-9)。」

 復活されたイエスは婦人たちに言われました「恐れることはない。行ってわたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる(マタイ28:10)。」ガリラヤに待っていた11人(イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除いた)の弟子たちにイエスは近寄って来て言われた「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だからあなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべ守るように教えなさい(マタイ28:18-20)。」
これを「宣教(せんきょう)命令」と言いますが、死とこの世に勝利された復活の主、栄光の主が、神から一切の権能を授かっていると言われ、わたしの命じたこと、いのちと平和のある正しい生活の実践を守るように教えました。イエスさまは、弟子たちの前で、天に昇られました。再び同じ姿で帰って来る。その時、今の世は完成します。終りの時です。それまで、わたしは「いつも」「ともに」います。イエスさまのお約束です。

 私たちが困った時も、孤立したときも、孤独な時も、死の床に就いた時も、イエスに話しかけ、その声を聞き、祈りましょう。喜びと感謝の三月としましょう。

 

 2022年  3月 園長 山田 昭和